09.7.11

自分の関心や興味の範疇ではないけど、憧れたり、背伸びしたりして手を伸ばすということが出来たのが雑誌の特性でしょう。棲み分けが出来すぎてしまった今、知らない世界に間違って足を踏み入れるということが少ないのかもしれません。検索エンジンはますます精度を増す一方なのですから。「パンダ」って検索して「パンダラブー」が引っかかるようなことは、もうない。

吾妻ひでお『地を這う魚 ひでおの青春日記』

漫画家になるべく19歳で北海道から上京した「あづま」こと吾妻ひでおの自叙伝的漫画。
約5年間にわたる長い連載がようやく1冊の本にまとまったもの。奥付を見ると、かの大ヒット作『失踪日記』の発行と同年から連載が始まっている。その『失踪日記』にもちらりと登場する、漫画家駆け出し時代の出来事が描かれています。


なんと言っても、まずそこに描かれている世界の描写に目を奪われます。『失踪日記』でしか吾妻ひでおを知らない人には、なんのこっちゃいというものかもしれない。
冒頭に登場する、あづまが働く印刷工場では印刷物ではなくわけのわからない生き物を作っているし、男性の主要な登場人物の多くは動物として描かれている(さすがに女性はかわいらしい人間の姿で描かれていますよ(笑))。1969年の出来事にしては近未来的な乗り物が走っていたり、電車に乗る人々はロボットだったり、一方で家の中には足の生えた魚や軟体動物らしき生き物が泳いでいたり這っていたり。
まるでこの世の風景とは思えない描写で、なんとも言えない浮遊感を漂わせているところがいかにも吾妻さんらしいのです。


この物語には漫画家を目指す若者たちが描かれていますが、トキワ荘まんが道のようなオールスター勢揃いの劇的な物語ではなく、トキワ荘の次の世代の若者たちが苦しんだり喜んだり(しかも大きな挫折や成功があるわけでもない)という日常を描いています。しかも結果的に大メジャーになった人物もおらず、これがごくごく一般的な、漫画家を目指す若者たちの姿だったのかもしれません。*1
だからこそ、こんなに奇妙な世界を描きながら、不思議と感情移入できる場面も多く、気がついたら何度も読み返しています。


会社の寮を追い出されたあづまにいろいろと世話を焼いてくれる友人たち、いででどう太郎先生が弟子を思う場面、あづまの描いた似顔絵が思わぬことになるところ、ようやく安住の地を得て寝入ったあづまを乗せ空に浮かんでゆく巨大イカ・・・すてきだなあと思えるシーンがたくさんあります。


それにしても、『失踪日記』の絵も相当凄い!と思ったが(表紙にもなってる雪の日の描写など)、この作品はその何百倍も凄い。特に今年に入ってから描いたものとみられる書き下ろし部分は凄いを超えて凄まじいの一言。読み進んでいくとともに画面の細部にわたり書き込みの密度も濃くなってきます。その辺りもこの作品を読む醍醐味かもしれません。漫画にしかなし得ないことだなあ、これは。
(ゆきみちゃんがつのだじろう先生に意見するシーンの、周りを泳ぐ魚たちの反応は絶妙すぎる!)


失踪日記』の該当部分と読み比べるのも楽しいと思います。誰がどの動物になっているのか、とかね。
あと、『失踪日記』の真似っこと言われがちなオレンジの装丁、私は嫌いじゃないです。

*1:当時の漫画事情がちょうど我が家にあった『spectator』の最新号に載っていました。赤田佑一さんの「『COM』の時代」。作品上に登場する固有名詞はこれを読めば一目瞭然、という位よいサブテキストとなりました。より深めたい人におススメ

Spectator 20

Spectator 20

表紙の画像が出ないなあ。むちゃくちゃかっこいい表紙なのに!http://www.spectatorweb.com/